夏は、生ものの足が速い―――うっかりしていると、知らない内に腐っていたりする。








キマジメナ アナタ








朝の言葉通り、早めに執務を切り上げて戻った三蔵を
悟空はいつも通りに出迎える。


悟空は昼間の内、一人で近くの森へ行き色々と考え
考えている間に、ちょっとだけ、うたたねもしてしまったが
とにかく、伝えたい事は決まっていた。

三蔵が私服に着替えると悟空は声を掛ける。


「さんぞ、夕飯食べてお風呂入ってから話聞いてくれる?」
「解った」

三蔵は言葉短に返事すると、いつもの様に新聞を手にした。







―――猿にしては考えたな。

食べる前に話して気まずくなって、夕飯が食べ辛くなるのを避けたか、と、三蔵は納得する。
所詮、猿の一番は食べ物の心配だ。
胃袋を捕まえた八戒なら、これからうまくやって行くだろう。

いつもより、若干早目な時間ではあったが夕餉にする。
それは、時間以外はいつも通りで、悟空がその日あった他愛も無い事を一方的に話し、三蔵が相槌を打つ。
食べ終わって食器がさげられると、悟空はさっさと風呂へ向う。
三蔵と悟空の風呂は、他の坊主達とは違い、三蔵の私室に備え付けられている。
おかげで、悟空が泥だらけになって帰って来た時も
三蔵が夜中まで仕事に詰める時も、いつでも入れる様になっている。


三蔵と悟空が一緒に住み始めた頃は
悟空を一人で風呂に入らせると、泥のまま湯船に入ろうとしたり
禁錮のせいで髪が一人で洗えなかったり
石鹸で泡を作り飛ばしまくり壁に石鹸の跡をつけたりと
とても野放しに出来ない状況だっため、二人で一緒に入る事も多かった。



悟空が風呂に行っている間、
食後の一服とばかり煙草を銜えた三蔵は、つらつらと昔を思い出す。


―――随分と、手が掛かった。


常識も何もしらない野生の猿を拾って
最低限、自分に迷惑が掛からない程度にするまでに
結構な時間が必要だった気がする。

火を点けようと、ふと、手の中のライターを見て思い出す。

馬鹿猿が初めてコレを見たのは、
猿を拾って五行山から降りる途中
日暮れまでに山を降りる事が叶わず、野宿する為に
動物避けと山の気温は夜になるとグッと下がる為、焚き火をした時だった。
集めた枝をどうするのか聞かれて、ライターで火を点けた時
馬鹿猿が見せた驚きっぷりが、凄かった。

『なっ!これ、どうなってんだ?!』

金色の瞳が、炎を映してその輝きをきらきらと増し
火を見て喜び、火を点けたライターに興味を持ち
危ないから、触らせないようにしようかと思ったが
自分に隠れて触られて、火事なぞ起された日には洒落にならないと
仕方なく、ライターの扱い方を教え、何度か火を点けさせ
―――ついでに遊び道具では無い事と、火が熱い事をその身を持って解らせ
最後に自分の煙草に火を点けさせた。


『すげ〜なっ!!なぁ、三蔵、ライターってすげぇよなっ!!!』
『な、俺、火を点けるの上手くね?』
『あつっ!!これ、すっげぇ熱いんだなっっ!!!』


にこにこと、嬉しそうに笑い、驚き、叫び
くるくると変る表情は、あの時から今も変らない。



――――――これからは、ソレを自分では無くあの二人が見守る事になる。



火を点ける筈だった煙草を、三蔵は知らず掌で握り潰していた。




バタン、と扉の閉まる音がして三蔵が顔を上げれば
濡れた髪をタオルで拭きながら悟空がぺたぺたと歩いてくる。

「三蔵、おっさき〜。気持ち良かったよ、三蔵も入ってこれば?」


吸われる事無く握り潰された煙草だけが、灰皿の中に残ったまま
何も答えず、三蔵は風呂へ向った。











三蔵が、風呂へ向った後
悟空は大きく溜め息を吐いた。

緊張感が、半端無いっっ!!

心の中で悟空は叫ぶものの、決戦迄の時間は僅かである。
腹を括って三蔵に体当たりをするつもりなのだから
これくらいの緊張は仕方が無いのだと、自分に言い聞かせる。

それに、悟空は気がついていた。

悟空自身、一杯一杯で緊張していて
それでも、いつも通りの自分でいようと必死に話し掛けていた。
三蔵は、自分と違いいつもと変らない様に見えていた。
けれど、よくよく見ていれば
三蔵の密かな苛立ちや、機嫌の悪さ
それに加えて、悟空と目を合わせない様にしていたりと
あちらはあちらで、少しは気にしているようだ。


ふと、悟空の視線が、テーブルの上にある灰皿に釘付けになる。


訂正


三蔵の心の中は、もしかしたら、結構大変なのかもしれない。


ちょっと、嬉しくて泣きそうになる。
身体に入っていた力が少し抜け緊張が解ける。
三蔵が風呂からあがってきたら、また、緊張するのは解っているが
それでも少しだけ、三蔵の感情が、自分に対して動いていると言う事実が悟空を勇気付けた。
大きく深呼吸をして、今日迄、色々考えた事
絶対にこれだけは三蔵に伝えたいという事
それらをもう一度、頭の中で整理する。


後ろでパタンと扉の音がする。
三蔵が風呂から上がり、先程の悟空と同じ様に髪をタオルで拭きながら歩いてくる。
流石に今日はビール片手に歩いては来ないが、いつもなら、寝巻き代わりの浴衣を着てくるのに
今は上半身は何もつけず、私服のジーンズを穿いている。


『話が終ったら、外に行くつもりなんだ』


悟空の胸が、キリキリと締め付けられる。

―――絶対に、行かさねぇもん。

三蔵が寝台に腰を下ろし、簡単に頭をタオルでガシガシと拭い
粗方の水分が髪から抜け首にタオルを掛ける。
タイミングを見計らっていた悟空は『今だ』と思い、三蔵の前に立った。










三蔵が顔を上げれば、其処には真剣な表情の悟空。
自分が部屋に戻った瞬間から、悟空はずっと緊張しタイミングを伺っていた。

「三蔵」

いつもより、ほんの少しだけ低い声で自分の名前が呼ばれる。
緊張して握り締められた手と無駄に力んだ肩。

「三蔵、俺―――」

言葉を切った後に一度だけ目を伏せ一瞬の間が空く。


「俺―――」


三蔵は、死刑の宣告を待つ様に
ただ、悟空の口から『ここを出て行くのだ』と言われるのを待つ。





「俺っ、夢精したんだっっ!!!」






ムセイ

声が無い―――それは、無声。

性別が無い―――それは、無性―――ミミズ??いや、あれは雌雄同体だ。

『夢精』か?そうなのか??赤飯の用意しろとか、そう云う事なのだろうか???
それで、別れ際に八戒が頑張れ等と言ってきたのか?
確かに猿の食べる量を考えれば、頑張れと言われるのも納得できるが
八戒なら、悟空の成長を祝って作ってきそうじゃないか?
大体、この馬鹿猿に第二次成長期やら思春期やら精通やら夢精やらが訪れるなんて
そっちの方が変だろうが?どう見ても子供だぞ。
草をつけて泥だらけで転げまわって
見てるこっちが笑っちまうくらいの無邪気な笑顔で
笑ったり、怒ったり、泣いたり、素直で真っ直ぐな子供
保父と河童に言わせりゃ、その存在自体に心が癒されるだとか
食欲と睡眠欲はともかく、性欲の欠片も無い様な



――――お前は、そんな、子供だろうが



表面上、何ら表情の変化は無かった物の、三蔵の心の中は完全に混乱していた。
『混乱したまま、固まっていた』と云うのが正しいだろう。




「うわっ!!ちがっ!やっ!!夢精はちがわねぇけど、間違い!!!
 三蔵!!夢精はしたんだけど、そっちじゃなくて!!!」



真っ赤な顔して頭を抱えて『うわーーーっ!!』と慌てふためく悟空。



夢精々々とその口から連呼せんでくれ―――頼むから。



「後っ!!夢精は後でっっ!!!」



―――頼むから



「―――落ち着け」
「ごめんっっ!!あーーーーー!!!!もうっっ!!!!!」




とうとう悟空は頭を抱えたまま蹲ってしまい
そんな悟空を見ると


―――やっぱりガキだな


そう、少しだけ安堵したものの、ある事実に気が付いて三蔵は愕然とする。
知らず知らずの内に避けていた『悟空が大人になる』と云う事実。



自分は、悟空にずっと子供で居て欲しかった。



そして今、悟空の成長を突きつけられ
成長した事を喜んでやれなかった、己の狭隘さに―――吐き気がした。






蹲っていた悟空は勢いをつけて立ち上がると、くるりと三蔵に背を向けて、大きく深呼吸をしている。
腕を広げて吸って吐いてを何回か繰り返すと、まだ、若干紅い顔をしているが三蔵にもう一度向き合う。

悟空から見た三蔵は、無表情の儘だが
完全に動作が止まり、少し混乱している様にも思えた。

予定では、三蔵の様子を伺い
タイミングを見て
一番最初に

『三蔵、俺は八戒と悟浄の所へは行かないよ』
『三蔵が嫌だって言っても、三蔵の傍に居る』

そこで、ちょっと、良い雰囲気になったら

『俺、三蔵の事が好きなんだ』

なんて、オーソドックスなのが一番効くかもしれませんねぇ
あ〜効きそうだわな。後、意表を衝いて強引に迫るのもアリじゃね?


あーだこーだと、幾分かは面白がって相談に乗ってくれていた
自称恋愛のプロと、仲間内では唯一の両想い経験者。
最終的には、小細工できない悟空には、正面からぶつかって行くのが一番だろうと、正攻法を薦めてくれていた。
悟空自身もそのつもりだった。




―――しかし



極度の緊張と、先日自身の身に起こった、成長過程には当然あるべき現象。




今度二人がいる時に、お赤飯炊いて行きますね。
三蔵にも伝えなきゃいけませんよ、喜ばしい事なんですから。


朝起きて、困っていた悟空ではあったが
八戒に、にこにこと頭を撫でながら、そう言われてしまえば頷くしかなく。

告白と一緒に報告したら、三蔵も手を出しやすいかな?と。
一瞬ではあるが、そんな考えが頭を過ったのは事実で。


緊張すると、思っていた事とは別の事を口に出してしまったり
あれこれ要らない事を言って話を混乱させたりするのは良くある事だが、あまりにもタイミングが悪すぎる。
とにかく、悟空は体制と話の建て直しをするしかない。
勇気を出してもう一度向き合い、三蔵と目を合わす。



「……猿にも盛りがついたか。良かったじゃねぇか、人並みに成長して」



三蔵の口の端に浮かんでいたのは、嘲笑としか見えず
明らかに、三蔵にとっては良くなかったのであろうと察せられる物言い。
流石に悟空はカチンと来た。



その結果



「盛りってなんだよ!三蔵だって夢精くらいあるだろっ!!」
「あぁ?!猿が馬鹿言ってんじゃねぇ!!」
「何だよ、これって、大人になるのに当たり前にある事何だろ!!」
「だから、良かったなって言ってんじゃねぇかっ!!」
「三蔵は全然『良かった』なんて思ってねぇじゃん!!
 そんな言い方するんだったら『良かったな』なんて口先だけで言うなよっっ!!」
「あぁ?!どこの雌猿に盛ったかは知らんが」
「雌猿じゃねぇっっ!!!」

三蔵の言葉を途中で遮って、悟空は今まで以上に真剣な眼差しを向ける。


「……三蔵だもん」


「―――あ?」

三蔵が一瞬虚を衝かれた様な顔になる。
けれど、悟空は目を逸らさなかった。
顔を真っ赤だし手も足も震えてきたし、目には涙が溜まってきたしと散々な状態ではあるが
それでもしっかりと、三蔵の目を見て伝える。



「八戒の家に泊ってる時に、三蔵の夢を見て

 ……朝起きたら夢精してたんだもん」








夏は、生ものの足が速い―――うっかりしていると、知らない内に腐っていたりする。







―――知らない内に腐っていたのは、猿の脳みそ







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