―――とうとう、その時が来たのだ。


そう思っていた三蔵は、とんでもないしっぺ返しに遭う。









キマジメナ アナタ








その日も、悟空は出かけていた。
三蔵は、切りのついた書類を小坊主達に運ばせ
固まった肩をまわして解し、疲れた目を閉じ眉間に指を当てて揉む。
悟空の行き先は、八戒の家だ。
幾分がマシになった目を開けて、袂から煙草を出して火をつける。
灰皿を持って窓の近くに移動し、景色を見ながらの一服。
これは、悟空と暮し始めてから付いた癖だった。
三蔵の執務室の窓からは、中庭が見える。
そこで良く、悟空は遊んでいた。
犬や猫や小鳥等の動物と戯れていたり
咲く花々と話していたり、裏山や厨房に行かない時は、大概此処に居た。
そして、三蔵が窓の近くで煙草を吸い始めると
気がついた悟空が窓の下まで走ってきて
『かまえ』と、叫んでいた物だった。
偶に、窓から入ろうとしたり
摘んだ花や、厨房で貰った菓子を『一緒に食べよう』と持ってきた。


中庭を見る癖がついたのは、悟空が何かをしでかしてないか
ただ、それが、心配で見ていただけだ。
何かアイツがやらかす度に、自分の仕事が増えるのだから。


そんな事をつらつらと思い出しながら、三蔵は二本目の煙草に火を点ける。
最近は、裏山へ行ったり、八戒の家に行ったりする事の方が多くなった為
中庭から悟空の声が聞こえる事も、稀になった。

三蔵が、距離を置くようになってからも―――寧ろ、置いてからの方が
悟空の声が中庭から聞こえる事が多くなった。
そして、三蔵の姿が窓から見えると、必死になって構われようとした。



―――だが、今は違う。



三蔵以外に、悟空を大切にしてくれる者達が現れたのだ。
自分でも、勝手だとは重々承知しているのだが
その事実を突きつけられた時、腹の中で嘲ったものだ。
あれだけ、三蔵を追いかけておきながら、
他に自分を可愛がってくれる者達が現れれば、あっさりとそちらに尻尾振るのだ。


結局、そんなモンだ。


三蔵でなくてはいけない理由など、無いのだ。
寧ろ、寺院に居るより、アノ二人と暮した方が、悟空は幸せになれるであろう。


アノ二人―――最近知り合った妖怪、八戒と悟浄


この二人が現れてから、悟空の世界は格段と広がっていった。
手放しで甘やかされ、慈しまれ、大事にされているの良く解る。
八戒は得意の料理で猿を餌付けし
悟浄は猿と同レベルの悪さを仕掛けて構い倒している。

『泊りに来る様に、二人に誘われた』

大変良い笑顔で、報告して来る猿に『勝手にしろ』としか、返せなかった。
随分と大人気無いと、三蔵は自分自身で解ってはいた。
八戒や悟浄が『悟空を引き取りたい』と、その内に言ってくるのであろう事も予測がついた。
寺院内の空気は、悟空に取って悪すぎる。

『三蔵様の稚児』

その噂の所為で、悟空に直接手を出す者は少ないが
それでも、ちょっかいを出す奴も居た。
悟空には、第一に自分の身を守る事を教えてあるが
うっかり騙される事が、無いとは言えない。
自分の寵愛を受けている、と云う、甚だ不本意な噂を公認しているのは
少なくとも『三蔵様の稚児』に、手を出しても良い事が無いのを解っている
権力志向の強い奴らが多いからだ。
それでも、馬鹿は何処にでも居るので、用心を重ねるのに越した事は無い。


―――そろそろ、潮時だ。


三蔵は、溜め息を吐いているのを隠すように、煙草の煙を吐き出した。







遠方への説法や
他の寺へ、箔付けの為の『三蔵法師の滞在』
寺を留守にしようと思えば幾らでもその手の仕事はあった。
今までは、極力、三仏神の直接の依頼でもなければ受ける事も無く
受けたとしても、悟空を伴える時は連れて行っていた。



「なぁ、今回も駄目なの?」
「何度も言っているだろうが。また暫く、八戒と悟浄の家に行ってろ」



あの二人には、話を付けてある。
今年の春先から悟空を預ける回数が増え、迷惑どころか寧ろ嬉々として待っている。
そして、先日迎えに行った時には、
とうとう『よければ、悟空を引き取りたいのですが』と、八戒が三蔵に申し出た。
八戒が言い出すという事は、悟浄も納得しているという事で。


少しずつ、慣れさせて。
秋になる頃には、悟空を送り出す予定だった。


「料理も美味いし、楽しいけど」
「なら良いだろうが、行くぞ」


話を打ち切り、連れ立って歩く。
今日は、門の外に八戒がジープと待っている。

「悟空」

こちらを認めて手を振る八戒に、馬鹿猿は大きく手を振り駆け出す。

「三蔵、良ければ途中まで送りましょうか?」
「あ、それ良い!!」

八戒の一言に猿は嬉々として答えるが

「生憎だが、今回は供が何名か付けられててな」

門のところで何人かの僧侶達が控えている。
それにちらりと目をやれば「あぁ」と八戒が納得した。

「ちぇ〜っ……でも、帰りは八戒のところに迎えに来てくれんだろ?」
「滞在日数が解らんからな。とりあえず、仕事が片付いたらそちらに行く」
「解りました。では、三蔵、道中気をつけて」

八戒はそう言うとジープに乗り込む。
その後を慌てて猿もジープに乗り込み
「三蔵、気をつけてなぁ〜〜〜〜〜」
にこにこと笑顔で振り返りながら手を振る。
便利な乗り物は、あっと言う間に自分を置いて走り去っていく。

「三蔵様。ご出立の儀、よろしゅうございますか」

こちらの様子を伺っていた僧侶達が、車が去ったのを確かめてから伺いをたてて来る。
「あぁ」と手短に答えれば、供の僧侶が列をなしつき従う。
先導の僧侶の背中を見ても何とも思わないのに
何故か、先刻の八戒に向って走っていった悟空の背中が
三蔵の頭の中に甦る。

この説法が終る頃、夏も終わりを迎える。
悟空に告げる時が、迫っていた。

これで、面倒な事にともおさらばだ。
静かな日々に戻る。
三仏神には、里子に出す打診をしたところ
定期的に確認だけはしろ、と云われたが
それも、まめな八戒に手紙で報告でもさせれば良いだろう。



この仕事が終ったら、悟空を八戒と悟浄に任せ
自分はまた、経文を探す旅に出ても良い。
三蔵はそんな風に勝手に考え、悟空の今後を決め
悟空が居なくなった後の、自分の今後もつらつらと考え始めていた。




だから、漸く仕事が終わり、八戒の家に悟空を迎えに行き
『どうせなら、全員が揃った時に悟空に話すか』と、考えていた三蔵は

「三蔵、寺院に帰ったら悟空が貴方に話したい事があるそうですよ」

にこにこと、八戒に耳打ちされて

あぁ、悟空から八戒の家に行きたいと申し出るように仕向けたか

三蔵の頭にそんな漠然とした考えが過る。
『 暑い時にこそ、熱い物』という、八戒と悟空の主張で、残暑厳しい中ですき焼きをつつく夕餉。

確かに、三蔵から言い出すより
悟空が自主的に出て行きたいと云う方が、三蔵にとって都合も良い。

それならば、寺院に帰ってから話を聞いてやるかと三蔵は鷹揚に構えた。
いつもの様に騒がしく夕餉を囲み、食後のコーヒーで一服して
その後、ジープで送られて寺院に帰る。
悟空が八戒に抱きついて滞在の礼を言い
一応、現時点は保護者である三蔵も、手短に礼の言葉を述べると

「こちらは、いつでも大歓迎ですよ。それよりも、三蔵……頑張って下さいね」

そう返されて、八戒は帰っていた。
三蔵は走り去る車をぼぉっと見送りながら
『何を頑張るというのだ』と、八戒の不思議な一言に首を傾げたものの
あまり気に留めることもなく流した。
悟空と部屋に戻り、風呂に入るよう促すと、何故だかもじもじと下を向く。


今、話したいのだろうか?


「猿、何か云いたい事でもあるのか?」
「や、あの……でも、今日は疲れてるから明日!
 明日、話したい事があるんだ……夜で良いから時間、作ってくれる?」

上着の裾を指先で引っ張ったり握ったりしながら、つっかえつっかえに悟空は三蔵にお願いをする。
ちょっと、上目がちで、少し、拗ねているかのようにも見えるその表情は
三蔵が今までに見た事の無い表情で。

「何だ、今でも良いが」
そう三蔵が水を向けてやっても
「あ、明日!!俺、明日が良いんだっ!!風呂、すぐ入ってくるからっっ!!」
そう云って悟空は、さっさと三蔵の前から逃げ出した。


猿でも言い難い事があるんだな。


流石に『飼い主を変えたい』とは言い難いかと、三蔵は煙草に手を伸ばしながら嗤う。
その笑みが嘲笑とも自嘲とも見える、何もかもを諦めた人間の浮かべる笑みだとは
浮かべた本人は知る術が無かった。


ただ、溜め息を誤魔化す様に、煙草だけが消費されていった。








三蔵が部屋の中をこれでもか、と言う位に煙を充満させている時
風呂場に逃げ込んだ悟空は、とても困っていた。

悟空は、確かに三蔵に話がある。

春先から、何度も何度も八戒と悟浄に相談して
悩んで悩んで悩みぬいて決めた事だし
三蔵は、基本的に優しい人だから怒る事は無いと思っている。
それでも、やはり話すタイミングが難しい。
悟空は言葉巧みなタイプでもなければ、駆け引きや言葉の裏側を読めるタイプでもなかった。
きちんと話せ、とよく三蔵からも言われ
緊張したり感情が高ぶると、言葉がとんでもない方向に走ってしまう事もある。

明日の夜に話す迄に、よく考えておこう

うんうんと、湯船に浸かりながら自分の考えに頷けば、湯の表面が揺れる。
膝を抱えて身体を丸めて膝の上に顎を乗せると、鼻の上までお湯が来る。
ぶくぶくと泡が弾け、だんだん空気が足りなくなって苦しくなる。

「ぷはぁっ!!」

苦しくて、顔を上げれば水面が大きく揺れる。

なんか、今の俺の気持ちみてぇ……

はぁ、と、悟空も大きく溜め息をついた。



『『とにかく、明日』』



悟空も三蔵も、今までの自分達の関係が、確実に明日の夜で終ると云う事実に
思っていたよりも―――少なくとも、互いが横になっても、なかなか寝付けない程度には動揺していた。







当たり前に夜は更け、朝が来る。
明け方に何となく、うとうとしただけの三蔵は大変不機嫌なまま
同じ様に明け方に何とか眠れたかな?と云う悟空は何とか起きたものの
意識の半分は遠い所に置いたまま、形だけだが、普段通りの朝を過ごす。


「今日は、なるべく早めに戻るようにする」
「うん」


三蔵の一言に、悟空が頷く。

「いってらっしゃい」

扉を開けて出て行く背中に、悟空はいつも通りの言葉を掛ける。
三蔵から返事は無いが、それはいつもの事で。

パタン

閉まった扉をしばらく見つめていた悟空は、深く深く溜め息を付き、知らずに入っていた身体の力を抜く。
そして、閉じられた扉の向うで、三蔵も悟空と同じ様に深い溜め息を吐いていた。

それは、普通の朝で
いつもと変らない一日の始まり


けれどそれを迎えた二人には、恐ろしく長い一日となる。







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